今日は昨日に引き続き中山靖雄さんの書かれた
『すべては今のためにあったこと』から
この本の中に『下座(げざ)』という言葉がでてきます。
下座とは、上座を降りて相手を敬うこと。
中山先生は、下座の心で講演するために講演会先の会社や会場のお手洗いをまず掃除していたそうです。
私はある講座で「下座」の心を学んだ時に「下座」と「卑下」の違いがよく分かりませんでした。
私が「下座」をやろうとすると「いやいやいやいや、私なんて‥」とどうしても「卑下」が全開になってしまいます。
相手を敬う、けれど自分を落とす訳でもない。
下座ってどういう状態??と謎なまま何年も経っていましたが、歌舞伎の市川海老蔵さんの話を聞いて「下座」ってこういうものなんじゃないかと腑に落ちたのでシェアしたいと思います。
これは、若くてやんちゃをしていた頃の海老蔵さんが「海老蔵」という名前を継ぐことについて語った言葉です。
「過去から未来に継承されていく何人もいる「海老蔵」の中で、自分は繋ぎでしかない。
自分なんてたかが繋ぎ。
でも繋ぎというはかり知れない責任がある。それを自覚してしっかり務めを果たす。」
「たかが繋ぎ」でも、そこに誇りと責任を持っている海老蔵さんの在り方こそ、下座の心なんだなと気付かされました。
私たち人間は、自然のサイクルの中のごくごく一部で無力でちっぽけ。
言ってみればただのコマの1つに過ぎない訳です。
でも、同時に自然の中の一部を担っているかけがえのない存在でもあるとも言えるのです。
この程度の私、されどなくてはならない私。
傲るでもなく、卑下するでもなく自分に与えて頂いた役目を全力でやりとげる。
そういう「下座」心を忘れずに生きて行きたいなとこの本を読んで改めて思いました。
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